犯罪と絶望、自殺願望 〜つい先日までの暗黒の記憶とともに〜

死刑になりたい:なぜ?凶悪事件、犯行動機で供述(上)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080528mog00m040024000c.html

 この記事を読んで書きたいこと、というか思い当たることがあったので、引用した記事内容からは多少逸脱するかもしれませんが、少し書いてみたいと思います。はじめに断っておきますが、僕は敢てここで死刑制度の是非を論じたり、昨今の犯罪多発を踏まえて犯罪者を断罪するといった形で社会情勢に言及するわけではありません。あくまで個人的経験に基づいた感想のようなものです。若干提言、指摘の類の部分もあるでしょうが。

 上下の2部構成となっているこの記事ですが、とりわけ気になったのが(下)の後半部の一節。

米国では、以前から死刑願望者による事件が起きている。「死刑の大国アメリカ」(亜紀書房)の著書がある宮本倫好・文教大学名誉教授(米国近代社会論)によると、州ごとに死刑制度の有無が異なる米国では、わざわざ死刑制度のある州で、無差別に殺人を犯すケースがいくつも存在するという。

 宮本教授は「日米各ケースの内容は千差万別だと思う」とした上で、「強いて共通点を探すとすれば、やっぱり若者の間の絶望。米国の格差は日本とは比べものにならないくらいひどいけれど、両国とも今は暗くて閉塞(へいそく)感がものすごい。格差社会はますます徹底しているし、日本も、アメリカ型社会の後をある程度追っているんじゃないか、ということが言えると思いますね。心の弱い希望のない若者が犯罪に走ったり、死のうとする。絶望の中に、犯罪の種が生まれるというのは分かる気がします」

混沌の始まり

 今だからこそ言えますが、かつて僕は半ば精神を病み、錯乱・自暴自棄といった境地に片足を突っ込んで死を望んだことがありました。元々小さい頃ややかんしゃくを起こしやすい子供だと見られていた(事実そうだったのですが)ので、おそらく周囲は当時多少の感情の起伏も生来の気質で大したことはないだろうと思っていたことでしょう。仮に何かおかしいと思っていたとしても、僕の中に自殺願望を見た人がいたでしょうか。
 しかし、あれは異常です。誰もいない部屋で冷静に回想するに、僕は当時の自分の精神状態の異常性を自信をもって指摘できる。躁鬱、人間不信、制御できない感情。そして何より頭の中を駆け巡り内側から飲み込もうとする、カオスな声にならない声。(これ以上はうまく表現できません。今の自分からすると、まるで違う人物にしか見えない、と言えば少しはわかりやすいでしょうか)

 このような負の要素を外見上薄めていた(と僕には思われる)要因としては、当時の僕が、少なくとも社会的に、あるいは世間的にみてある程度順調に歩んでいたことがあげられるでしょう。家は特別裕福ではないものの生活・進学にはいくらか余裕があり、親の職業も安定していました。中学では多少の問題行動はあるものの成績良好、無事地元で1,2を争う進学校へ入学を果たしています。友人も多くはないにせよ確実にいましたし、特別いじめられていたわけでもない。
 この状況で「辛い」「やってらんないよ」などとぶちまけたところで、おおよそそれは都合のいい、自分勝手な愚痴の類にしか映らないでしょう。現にこの記事の数少ない読者の皆さんもそう感じていらっしゃるかもしれません。

 しかし、それでもあったんですね。死にたくなるほどに僕を追い詰めるいくつかのファクターが。それも、短期的または断続的でなく、ゆるやかではあるものの、途切れることのない圧迫が。
 あえてここではそれが何かは書きません。説得力を増すためには不完全であれその方面の記述は多少は必要なのでしょうが、誰が見ているかわかりませんから。

絶望が生む魔物

 当時の僕も、自分が何かまずいことになっていること位は自覚していました。考えてみればそれも当然ですね。些細なことで、あるいは自分でも理由をよく理解しないまま突然目をむいて発狂したり、あろうことか無性に人に危害を加えたくなる(今はもちろん大丈夫ですよ)わけですから。それに、感情の起伏が激しいということは、こういった状態の自分を恥じ、嫌悪感を覚える自分もいます。そうすることで自分に絶望し、負のスパイラルを加速させる。

 その点において、狂人より半狂人の方が危険かもしれません。なぜかというと、この絶望が、冷静な時の自分に発狂時とは違った僕の中に犯罪願望を生んだからです。すなわち、

「このままじゃそのうち本格的に狂ってなにかやっちまう。それなら思考を失う前にひと暴れしてとっとと消えちまおう。ただ暴れて散るだけじゃ悔しいし、どうせだから気に入らないやつらできるだけ消しとこうぜ。」

ということです。こういうときの僕はこの絶望と、その根源から「その時点で(僕の場合これが鍵でした。詳細は後ほど)」逃れられないことからくる絶望を知っていたので、最後の手段として死を望んだのです。おまけ付きで。昨今の自暴自棄系凶悪犯と怖いくらい似ている。
 もちろん、こうして生きている以上僕も「人でなし」ではないので、違った選択肢も持っていました。

「このまま生きてたらとんでもないことをしそうだから、その前に死んでしまおう。」

まあ、どっちにしても行き着くところは自殺ですね。しかし、仮に決行していたとしても、今はやりの硫化水素練炭みたいに、はた迷惑な毒ガスまき散らしはしなかったでしょうね。なにせ、いざとなったら確実に死ねるよう、早くから毒物・危険物等の知識を蓄えていましたから。最有力はとある有毒植物。神経毒系の猛毒で、短時間で呼吸等の生体機能の中枢を麻痺させるものです。ふがいない人生も、最後くらいはできる限り醜くない形で迎えたい。それくらい本気だったんです。

飲まれるか、生き残るかの境目

 では、それでも僕が生きて、しかもその暗黒をやり過ごしたのはなぜでしょうか。

 単純な話、そこに希望があったからです。具体的には、大学進学による移動で、ことが起こっている環境自体から半ば「逃走する」という方法が。先に述べたように、幸いにも進学困難な経済事情ではなかったので。もちろん、それまで精神が瓦解せずもつかどうかわからなかったからこそ、このような葛藤があったのですが。正直、最後の1,2ヶ月はだいぶ危険でした。
 それでも、確かに希望がないわけではなかった。そして、その不確かな希望が僕をつなぎとめたのでした。だから、僕は今、ただ生きていられることの幸運を純粋に感謝しています。大げさでなく、本当に。ただ食べて寝るだけのことが本当に楽しいのです。

 しかし、それではこういった希望を最後まで見いだせなかった場合はどうなるのでしょうか。確かなことは言えませんが、経験からすると「とても危険な状態」になるでしょう。実際僕だって、こんな希望がなければ今頃何人か叩き殺していても不思議ではない。

最後に

 死刑宣告を受ける犯罪の一部が「絶望」から発生していることは確かであると言えるでしょう。少なくともこの種の犯罪に対しては、死刑は全く抑止力になりません。そもそもこういった人間は、罪を犯す以前に精神的または社会的に「終わって」いる(と少なくとも思ってはいる)のですから。僕自身、そういう意味での「終わり」が近いと感じたことは一度や二度ではありません。
 こういった状況が生まれている以上、この記事の言うように僕らは罪と罰について考え尚さねばならないでしょう。少なくとも、刑罰の抑止力があてにならないことは自覚すべきです。安易な刑罰の厳格化・残酷化論は役に立たないでしょう。このような意識の変革はは死刑制度の是非云々の問題ではなく、僕らの身を、そして社会を守るために必要なのではないでしょうか。

あとがき

 実感入ってるせいか気合い入ってしまって、すごい長文になっちゃいましたね。こんな暗い話題で。でも、重大な問題ですし、触れずにはいられなかったので。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。